奇妙な同居生活が始まった。
翌朝には、体調はすっかり回復していた。だが、そのことについてゾロは黙っていたし、部屋の主も何も言おうとはしなかった。
口に出さなければ、「体がもどるまで」という口実は有効だ。ゾロはちゃっかりログが溜まるまで居座る気で、彼の家に腰を落ち着けていた。
名前を訊ねられた時、男娼は軽く肩を竦めて「サンジ」と名乗った。
答える時の皮肉っぽい表情が何を意味するのか計りかねて、ゾロは眉をひそめた。それを見て、また男が笑う。
「あんたに、俺の名前なんて意味がねえだろ。なあ、マリモちゃん」
ゾロが本名を名乗らなかったことなど、当たり前のように見透かされている。
サンジはゾロがいようといまいと彼の日常を崩さなかった。
ゾロが衝立の奥に引っ込んでいる間、平気な顔で客をとり、事後には下のスタンドで煙草を買って来いとゾロに小銭を放ってきた。
逆う気にもなれず、ゾロは三本の刀をガチャガチャ言わせながら、毎日、石造りの階段を降りていった。
当てられまくった後に、シャツを羽織っただけの男と顔を合わせるのは気まずかったし、実のところ、ゾロには彼が本当に気にせずにいるとは思えなかった。
タバコと新聞を持って帰る頃には、サンジはシャワーで情事の残滓を落とし、すっきりした顔で機嫌良く猫とじゃれているか食事の支度をしていた。
「なおん」
ドアを開けると、サンジに遊んでもらっていた子猫が一声鳴いてゾロを呼ぶように振り返った。ゾロは煙草をテーブルの上に置いた。
「俺のことは良いから、勝手にそっちでやってろ」
そう言ったのに、子猫はゾロの方へとちょこちょこ近づいて来た。とん、とん、と軽く前足で叩いてくるのは、一緒に遊ぼうという誘いなのだろうか。サンジが猫じゃらしを振ると、そちらへ勢い良く飛びついていったが、一頻りじゃれたところでまたゾロのところへとやって来る。
頓着せずにごろりと横になって目をつぶると、不平がましい鳴き声が耳のすぐそばでした。それなら一緒に寝るか、と伸ばした手にふわふわした毛皮の感触が触れる。指を熱心に舐めたり甘噛みしてくる感触がくすぐったい。
「その男はどうせ寝ころがっているだけなんだから、かまってやることねえのに」
気を悪くしたようにサンジが言って、ゾロの手元から子猫をさらっていった。
「いいか、甲斐性無しの悪い男に騙されるんじゃねえぞ」
小さな鼻先にキスをしてやりながらサンジが言う言葉に、ゾロが吹きだす。
「あ、おい」
しかし、そこで子猫は体をよじってサンジの手から逃れ、またゾロのところへとやってきた。よたよたと辿り着いて、にゃあ、と訴える様子にあっけに取られてから、ゾロは大笑いをして子猫を抱き上げた。たちまち子猫は満足そうに喉を鳴らし始めた。どういうわけか、よほど気に入られたらしい。
サンジの青い目がゾロを睨んだ。
「何、笑ってやがるんだよ。仕方ねえ、キジトラのレディのお相手をしてろ。俺は飯の準備をすっから」
サンジが小さいキッチンで水音を立て始めた。足をひきずる音がたまに聞こえるのが気になって、ゾロは何とはなしに彼の方へと目を向けた。
綺麗な男だ、とフライパンを振るう横顔を見て思う。斜に構えて笑う顔も悪くはないが、つかみどころのないその奥に見え隠れする表情に、ゾロは惹かれるものを感じていた。
「ほいよ。てめえの分だ」
サンジが湯気の立つ大きなプレートを寄こしてきた。彼は料理が上手い。ここ数日で、ゾロがサンジについて知ったことの一つだ。
ふわふわとろとろのオムレツと焼きトマトに、分厚く切られたベーコンとサラダが添えられている。小鉢には果物とヨーグルトが入っており、ゾロが船で食べるそっけない食事とは雲泥の差だった。
足下にまとわりついていた子猫も、部屋の隅でごきげんにミルクをぴちゃぴちゃと舐めている。
「それにしてももう昼だぜ。こっちは一仕事済ませた後だってのに。毎日毎日、よく寝るなあ」
珍しくサンジが自分の分のプレートを持って向かいに座った。たっぷりと食べ物が盛り上がった皿を見て、思わずゾロは言った。
「てめえはウサギみたいに葉っぱしか食わないのかと思っていた」
「あ? 俺が食っちゃいけねえのかよ。バカな客が時間を間違えて来たもんで、朝食を食いっぱぐれてんだ。ああいうのは体力つかうし。てめえこそ、寝てばっかりのくせに、よくそんだけ食えるな」
そういえば、夢現にサンジが何やら切羽詰まった様子で、客に応対していたことを覚えている。およびではないだろう、と気にせず惰眠を貪り続けていたのだが。
「あんま食わないから細いんだと思っていた」
「太んねえ体質なんだよ。まあ、この仕事してっと細い方が良いって客も多いから好都合かな」
ガリ、と勢い良くトーストに齧り付きながら、何でもないことのようにサンジが言う。
「やべえ。パンがもうねえんだ。てめえのことは予定外だったからなあ」
「普段、食料はどうしてるんだ? てめえ、買い物なんか行ってねえだろ」
そもそもゾロが来て以来、サンジが外に出るところを見たことがなかった。
「日常に必要なもんは配達されることに決まってんだよ。俺、自由の身じゃないんだよね。そうそう出歩けないっつうか。ん~、どうすっかな」
サンジが頬杖をついて、一人ごちる。
「だけど、俺を拾った時は外に出ていただろ」
「てめえは拾ってないっつーの。猫のおまけ」
そういうこっちゃない、と憮然とした顔を見て、珍しく嫌味のない顔でサンジが笑った。
「まあいいや。マーケットは久しぶりだ。出かけるぞ。荷物持ちしろよ」
ゾロはフォークを持つ手を止めて、眉間に深々と皺を寄せた。いろいろと引っ掛かる物言いが、そこここにありすぎる。
ぐい、とナプキンで口を拭った男が立ち上がった。見ると、皿の上はほとんど空っぽだ。
「コーヒーは?」
「頼む」
部屋の中にコーヒーの香りが漂い始める。
機械的に食事を続けながら、ゾロは眉間の皺を深くした。
「金で縛られてんのか?」
「だったら? 袖擦り合った縁で逃げるのを手伝うとでも? 借金を肩代わりする甲斐性がありそうにゃ見えねえよなあ」
カップにコーヒーを注ぎながら、咥え煙草の男はいかにも気のない茶々を入れる。
「ほら、さっさと食っちまえ」
「なあ、てめえみたいなのが、なんでこんな仕事をしているんだ?」
せっかくサンジが流したというのに、余計なことを。
訊ねた端から、たちまちにゾロは後悔した。
身の上話を聞いてどうする。これではまるで、親切めかして相手の歓心を買おうとするオヤジのようだ。それでも気になった。聞かずにはいられなかった。
サンジは見慣れた皮肉っぽい表情を浮かべた。
「どっちが聞きたい? 本当の話と男の気を惹く作り話」
「なんだそりゃ」
「俺ね。宰相の息子だったの。ところが七年前、俺が十才の時に屋敷が火事になった。その時、燃える家からどさくさ紛れに拐かされて、今はこういう境遇ってわけ。ここで一生この仕事をお役人相手にするのなら命は保障してくれるんだって。逃げようにも見張りがついてるし、人質も取られているから動けねえ」
ぺらっと喋る、少し面白がるような声音がカンに触った。ゾロは詰るように低い声で訊ねた。
「それが作り話か」
「さあ、どっちだと思う?」
「……。その父親ってのは、火事のあとでてめえを探さなかったのか?」
「焼け跡から、同じ年頃の子どもの焼死体が出てきたと言われれば、そこで納得せざるを得ない。本心はどうあれね。それと、火事があってから間もなく宰相は失脚した。謀反の疑いありってことで」
サンジは黙り込んだゾロの手を取った。そのまま自分の顔へと持っていく。ギョッとしたゾロの指先がサンジの顔の前髪で隠された部分に触れた。
「……!」
自分の手をゾロのそれに添えたまま、サンジが前髪を上げた。そこにはむごい火傷の痕があった。そしておそらくは光を失った目が。
「分かった。もういい」
顔をしかめて、ゾロが言った。
しばらくゾロの顔をじっと見ていた男が、ククッと笑った。
「本気にしたか?」
「なにがだ?」
「こういうのがあると、話の信憑性が増すだろ? 先のヘマを踏んだ宰相のところで火事があったことも、子どもが焼け死んだことも事実だ。真に受けて金をはずんでくれるバカも結構いるんだぜ。この顔と長く歩けない足のせいで、こんな仕事しかできないだけだってのに」
クスクスと笑いを止めない男は、ゾロの指を唇に軽く含んだ。
上目づかいに深い青の目が見上げてくる。
腹の底がカッと熱くなり、狼狽してとっさに手を振り払う。
男はそのまま腹を抱えてゲラゲラと笑いだした。
――やってられるか。
初めて会った日にも思ったことを、また思う。それでも出ていく気にはなれない。
ゾロは舌打ちをして乱暴に席を立つと、寝床に横たわった。
にゃおん、と満腹した子猫がゾロを見つけて、とことこと寄って来る。手を伸ばして胸の上に置いてやると、喜んで顔を擦りつけてきた。
まだサンジは背後で笑い続けている。
美しい金色の髪。その奥にある焼け爛れた皮膚。青い目の深い色と、光を失った目。どちらもたまらない気持ちにさせられる。
指を熱い口腔に含まれた時、ぞくりとしたものが背中を走った。
――ちくしょう。なんてことだ。
あっという間に捉まった。会ってからほんの数日しか経っていないというのに。
きっと自分はあの男を抱いてしまう。
ギュッと目をつぶって、ゾロは今すぐにでも笑い転げている男を組み敷きたい衝動を堪えた。
つづく